尚美流の歩みを語るには、まずその母胎のことから始めなくてはならないでしょう。 |
創始者・松島茂雄会主は、阪急=東宝の総師である小林一三氏の応援により、東宝映画撮影所・美粧部や慈恵医科大学などで研究、人間をトータルに見つめた「個性美学」という理論をまとめあげます。 |
当時は、映画と一緒に欧米から新しいヘアーデザインやメイクアップ技法が次々と入ってきた、美容業界に熱気あふれる時代でした。研究や指導の過労から体調を崩して入院。美容講師として独立することを決心した会主は、東宝映画を退職。大阪・京橋で第1回の美容講習会を開きます。昭和36年2月3日、これが「日本尚美会」の誕生の日です。受講生はわずか4人でしたが、以後「個性美学」の魅力にひかれた人々により、京都、久留米、長崎、東京、名古屋など、定例の勉強会を開くグループが全国に生まれてゆきます。 |
△レギュラー番組が組織拡大に拍車をかける |
△昭和39年ブライダルショー |
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東海道新幹線が昭和39年に開通し、組織拡大が加速。翌40年には全国32支部となり、美容技術の選手権大会を初めて開催しました。 |
41年に「人相と骨」をテーマにテレビに出演し、以来多くのテレビ番組に出演することになります。また翌年の「顔の秘密」(池田書店刊)の出版をもって理論体系が完成。普及にも弾みがついて、さまざまな団体への講演が増えてゆきます。 |
44年、東南アジア5ヶ国へ「日本尚美会・美容使節団」を結成して訪問。美容会の国際交流の先駆けとなります。以後12回にわたる使節団の派遣や、留学生の受け入れなどの活動に対して、各国の元首や王室から多くの表彰を受けています。 |
タイの古都・アユタヤの寺院には、会主を偲ぶ地元の方々の協力によって慰霊碑(パコダ)が建立されています。 |